転職にあたって気になることの1つは、元勤務先との関係です。たとえば、転職前に残していった問題を理由に元勤務先から損害賠償請求をされるのではないか、と悩んでおられる方も少なくないのではないでしょうか。
そこで今回は、
- 元勤務先から退職後在籍中のミスを理由に損害賠償請求をされる可能性があるか
- 仮にされた場合の対処方法
などについて説明していきます。
目次
1、そもそも会社は従業員のミスを理由に損害賠償請求できる?
(1)損害賠償請求の根拠は労働契約又は不法行為
①労働契約に基づく請求
労働契約は、労働者が使用者に労務を提供し、これに対して使用者が労働者に対価としての賃金を支払うことを内容とする契約です(民法623条、労働契約法6条)。
労働契約における労働者の基本的な義務は「労務の提供」です。
もっとも、労働契約上、労働者は、使用者に対して、単に「労務の提供」を行うのみでなく、労務の提供にあたって、使用者に損害を与えないよう注意して労務を提供すべき義務も負っていると考えられます。
民法上、債務不履行によって損害を被った場合には、損害を被った当事者は相手方に対して損害の賠償を求めることができます(民法415条1項本文)。
そこで、従業員が仕事上でミスをして会社に損害が出た場合、使用者は、労働契約上の義務違反を理由に損害賠償請求をすることができます。
たとえば、会社が再三注意・教育を行ったにもかかわらず、従業員が仕事をしている中で何度も同じようなミスを繰り返した場合を考えてみます。
そのミスによって会社に損害が出てしまった場合、使用者に損害を与えないよう注意して労務を提供すべき義務に違反していると評価される可能性があります。
②不法行為に基づく請求
民法709条は「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」と規定しています。
したがって、従業員の「故意」又は「過失」により、会社の「権利」又は「法律上保護される利益」が侵害され、それによって会社に損害が生じた場合には、会社は、従業員に対して、不法行為に基づく損害賠償請求をすることができます。
先ほどの例でいえば、会社から注意・教育を受けたにもかかわらず、何度も同じようなミスをすることは、従業員の「過失」に該当する可能性があります。
そのため、上記のように過失があるミスによって会社に損害が生じた場合には、会社は、従業員に対して、不法行為に基づく損害賠償請求をする余地があります。
(2)従業員の単なるミスを理由とする損害賠償請求は必ずしも認められない
①単なるミスを理由に損害賠償をすることが困難な理由
以上のように、法律上、会社は従業員のミスに対して、労働契約上の債務不履行又は不法行為を理由に損害賠償請求をすることができます。
しかし、これについては過去の裁判例において、大きく制限が加えられています。
チームの責任者であったシステムエンジニア自身やそのチームのメンバーのミスによって取引先の発注が減少したとして、会社が当該エンジニアに対して損害賠償請求をした事案について判断した京都地方裁判所の平成23年10月31日判決では、以下のように述べられています。
「労働者が労働契約上の義務違反によって使用者に損害を与えた場合、労働者は当然に債務不履行による損害賠償責任を負うものではない。
すなわち、労働者のミスはもともと企業経営の運営自体に付随、内在化するものであるといえる(報償責任)し、業務命令内容は使用者が決定するものであり、その業務命令の履行に際し発生するであろうミスは、業務命令自体に内在するものとして使用者がリスクを負うべきものであると考えられる(危険責任)ことなどからすると、使用者は、その事業の性格、規模、施設の状況、労働者の業務の内容、労働条件、勤務態度、加害行為の態様、加害行為の予防若しくは損害の分散についての使用者の配慮の程度その他諸般の事情に照らし、損害の公平な分担という見地から信義則上相当と認められる限度において、労働者に対し損害の賠償をすることができると解される。」
引用:裁判所
要するに、会社は通常、リスクを取って利益を上げます。
従業員の「単なるミス」は、会社が利益を得るうえで、当然想定されているリスクです。
そうすると、そのような想定内のリスクが現実化したとしても、その責任は会社が負担すべきです(報償責任)。
また、従業員も人ですから、全くミスなく労務の提供を行うことは不可能です。言い換えると、労務の提供にはミスが付きものです。
会社は、従業員に対して、こうしたミスが付きものである労務の提供を命じ、労働者はこれを断ることはできません。
そうすると、労働者のミスが発生したとしても、それはもともと会社が命令して従業員に行わせたものである以上、会社が責任を負うべきです(危険責任)。
以上の観点から、会社の従業員に対する損害賠償責任は「信義則上相当と認められる限度」に制限されます。
したがって、従業員の「単なるミス」を理由として損害賠償を請求しても、請求金額は著しく制限される、あるいは認められない可能性が高いといえます。
②損害賠償金を給料から天引きすることは違法
では、会社が、従業員に対して損害賠償請求をする代わりに、従業員の給料から損害分を差し引いて支給することは認められるでしょうか?
結論からいうと、認められません。
労働基準法24条1項本文は、「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。」と規定しています。これを「賃金全額払いの原則」といいます。会社が従業員の給料から損害賠償金を差し引いて支給する場合、従業員の賃金の全額が支払われていないことになります。したがって、労働基準法24条1項本文に違反します。
③労働契約等に違約金の定めがあっても無効
労働契約書に「就業規則に違反する行為があった場合には、損害の内容や事情の如何にかかわらず、損害賠償金として100万円を支払う。
会社に100万円を超える損害が生じた場合には、100万円に加えて超過分を支払わなければならない。」などと定められていた場合は、どうでしょうか?
結論からいうと、このような定めは無効です。
したがって、会社は、従業員に対して、以上のような定めがあることを理由に損害賠償を請求することはできません。
労働基準法13条は「この法律で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については無効とする。」と定めています。
そして、労働基準法16条は「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。」と定めています。
先ほどの労働契約の例は、「違約金」や「損害賠償額を予定」する契約と解釈されますから、労働基準法16条に違反します。したがって、労働基準法13条により無効です。
④基本給の減額も違法
会社が、従業員に対して制裁として減給処分をし、実質的に減給分から損害賠償金を回収することは認められるでしょうか?
たとえば、その従業員の基本給を20か月の間、毎月5万円減額することは認められるでしょうか?
結論からいうと、認められません。
従業員のミスに対する制裁としての減給処分は、1回のミスに対して1回限りしか認められません。
これを「一事不再理の原則」あるいは「二重処罰の禁止」といいます。
上の例の毎月5万円の減給処分は、20回にわたって、制裁としての減給処分を行っているのと同じことですから、1つのミスに対して複数回の制裁を加えていることになります。
また、労働基準法91条は「就業規則で、労働者に対して減給の制裁を定める場合においては、その減給は、1回の額が平均賃金の1日分の半額を超え、総額が一賃金支払期における賃金の総額の10分の1を超えてはならない。」と定めています。
したがって、5万円の減給処分が許される場合とは、日割り計算した給料が10万円以上の場合ということになりますが、これを満たさない限り、1回分の減給5万円すら違法です。
(3)会社が損害賠償請求をすることができるケース
では、従業員にどのようなミスがあれば、会社は従業員に対して損害賠償請求をすることができるのでしょうか?
過去の裁判例では、債権回収業務を行っていた従業員が、担当する顧客先18社、153案件、合計2134万1500円について請求書を作成交付することを怠ったために、合計813万9675円の債権回収が不能となった場合に、会社の従業員に対する損害賠償請求を認めたケースがあります(東京地方裁判所平成15年10月29日判決・N興業事件)。
この裁判例では、請求書作成は債権回収業務を行う従業員が当然に行うべき業務であること、請求を怠っていた請求書の数が余りに多いこと、回収不能となった額も相当多額であること等が考慮されて、会社の従業員に対する損害賠償請求が認められたものと考えられます。
(4)会社の損害賠償請求は制限される
先にご紹介した東京地方裁判所平成15年10月29日判決・N興業事件についてみてみましょう。
このケースで会社が被った損害は、従業員が請求書作成を怠ったために回収不能となった800万円余りです。
しかし、裁判所は、以下の点を考慮して、会社が従業員に対して請求できる金額を信義則上相当と認められる限度として損害の約4分の1である200万円まで減額しました。
- 顧客先への請求書未提出が発生したのは、従業員に対する過重な労働環境にも一因があること(従業員の労働条件)
- 債権回収不能額のすべてが請求書未提出と相当因果関係があるわけではないこと。たとえば、今後の取引関係への影響等を考えて顧客からの値引きに応じたことも債権回収不能の一因となっていること(加害行為の態様)
- 会社では過去にも同様の事件が起きているのに、再発防止のために適切な体制をとっているとはいい難いこと(加害行為防止のために会社が取った予防措置及びその程度)
- 債権回収不能の事態が発生したのは従業員だけではなく、上司の監督責任でもあること(加害行為防止のために会社が取った予防措置及びその程度)
注目されるのは、従業員のミスだけでなく、会社の責任も問われていることです。
通常、従業員のミスが、従業員だけの責任で生じることはなく、会社の指導・監督不足も原因の1つとなっているといえます。
そうすると、従業員のミスを理由とする損害賠償請求においては、会社側の責任についても考慮し、場合によっては会社の損害賠償請求が大きく制限されることになる可能性があります。
2、退職後、在籍中のミスを理由に損害賠償請求できる?
(1)退職前と同様、会社の請求は制限される
退職後であっても、損害賠償の対象となるのは、従業員の在籍中のミスであることに変わりありません。そのため、これまでご説明したのと同じ理由で、会社の損害賠償請求は制限されることになります。
(2)3年(20年)又は10年の期間経過で損害賠償請求権は消滅する
①3年(20年)の消滅時効
不法行為を理由とする損害賠償請求については、「損害及び加害者を知った時から3年間行使しないとき」には消滅します(民法724条1号)。
また、「不法行為の時から20年間行使しないとき」にも時効によって消滅します(民法724条2号)
たとえば、会社が、退職した従業員の在籍中のミスを発見し、これによって損害が発生したことを認識した場合、会社は、当該元従業員及び損害を認識してから3年以内に損害賠償の請求をすることが必要です。
逆にいうと、会社の認識から3年が経過した場合、従業員は消滅時効を主張して、損害賠償請求を拒むことができます。
そして、会社が当該元従業員及び損害を認識していなくても、20年を過ぎた場合であれば、消滅時効を主張して損害賠償請求を拒むことができます。
②5年又は10年の消滅時効
一方で、労働契約上の義務違反を理由とする損害賠償請求権は、通常の債権ですので、一般の消滅時効が適用されます。そのため、消滅時効は、会社が損害賠償請求できることを知った時から5年間、あるいは損害賠償請求できるときから10年間となります(民法166条1項1号・2号)。
したがって、労働契約上の義務違反を理由とする損害賠償を請求する場合であっても、会社が、退職した従業員の在籍中のミスを発見し、これによって損害が発生したことを認識した場合、会社は損害を認識してから5年以内に損害賠償の請求をすることが必要です。
なお、上記の消滅時効は2020年4月1日以降に発生した義務違反に対する請求権に適用されます。
2020年3月31日までに発生した義務違反を理由とする損害賠償請求の消滅時効は、10年間(改正前民法167条1項)ですので、注意しましょう。
(3)退職から期間が経過していると可能性は低くなる
退職から期間が経過すればするほど、従業員が在籍中に行っていた業務の記録等の証拠が失われていくことが通常です。
裁判では、証拠によって事実を認定し、認定した事実に法律をあてはめて紛争の解決を図ります。
従業員のミスを理由とする損害賠償請求についていうと、裁判所は、証拠によって、「従業員のミスがあった」という事実を認定することが必要です。
ところが、従業員が在籍中に行っていた業務の記録等の証拠が失われてしまっている場合、証拠によって「従業員のミスがあった」という事実を証明することが困難です。
そして、損害賠償請求においては、基本的には、請求の前提となる事実を請求する側において主張・立証する責任があり、証拠上、ある事実があったともなかったとも判断できない場合(つまり、立証が不十分であった場合)には、その事実を認定してはいけないというルールがあります(立証責任)。
会社が従業員に対して損害賠償請求をする場合については、会社が請求する側ですから、会社が「従業員のミスがあった」という事実を証拠によって立証する責任があります。
そのため、証拠によっても、従業員のミスがあったともなかったともいえない場合には、「従業員のミスがあった」ことを前提とする損害賠償請求は認められないことになります。
こうした裁判上のルールもあることから、退職から期間が経過すればするほど、会社の損害賠償請求は困難になっていくといえます。
3、退職後、在籍中のミスを理由に損害賠償請求をされた場合の対処方法
(1)給料又は退職金から天引きされた場合
損害賠償分を給料や退職金から天引きすることは、前にご説明したように違法です(労働基準法24条1項本文)。
ただ、すでに天引きされてしまっている場合、当然に天引きされた分が会社から支払われるわけではなく、これを支払ってもらうことが必要です。
一般的には、まずは、会社に対し、損害賠償金を天引きすることは違法であることを説明し、天引きされて支払われていない給料(又は退職金)の支払いを求めることになります。
それでも会社が応じない場合には、未払いの給与(又は退職金)を求める労働審判や訴訟を提起して、支払いを求めていくことになります。
(2)損害賠償を求める手紙が届いた・電話を受けた場合の対処法
これまでご説明したように、会社の従業員に対する損害賠償請求は相当ハードルが高いため、会社からの要求に素直に応じる必要はないと思われます。
とはいえ、自分自身では、元勤務先からの損害賠償請求に応じる必要があるのかの判断が難しく、また、対応も難しいという場合も多いかと思います。
その際には、元勤務先への対応を弁護士に相談・依頼することが考えられます。弁護士は、専門的な知識・経験から、元勤務先からの請求に対する見解を示してくれるはずです。それが分かるだけでも、元勤務先との対応に自信が持てます。
また、弁護士に依頼した場合には、弁護士が元勤務先に対して連絡をすることになるため、自分で直接元勤務先との交渉等を行う必要がなくなります。
4、在籍中のミスを理由に損害賠償請求をされた場合の対抗手段
(1)消滅時効を主張する
退職後、在籍中のミスを理由に損害賠償請求をされた場合、まず、指摘されたミスがあった時点から3年が経過しているかどうかを確認しましょう。
3年が経過している場合、不法行為による損害賠償請求に対しては消滅時効を主張することができる可能性がありますから、これを主張して損害賠償を拒むことが考えられます。
(2)不当請求等である場合には逆に従業員が損害賠償請求をすることも可能
①不当請求、不当訴訟とは?
法的な請求であっても、それが不当と認められる場合には、そのような請求をすること自体が、不法行為を構成すると判断される場合があります。
まず、社会通念上相当と認められる範囲を超えて、権利行使を行うことは、恐喝罪(刑法249条1項)にあたる可能性があります。
たとえば、元勤務先が、「賠償金を支払わなかったら、新しい勤務先に過去のミスを全部暴露するぞ」などと脅して賠償金の支払を迫ったとします。
そのような元勤務先の行為は、「社会通念上相当と認められる範囲を超えて」賠償金の支払を求めるものであるとして、恐喝罪として刑罰の対象となる可能性があるのみならず、民法上の不法行為を構成する可能性もあります。
また、民事訴訟についても、
「訴えの提起が事実的、法律的根拠を欠き、提訴者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知りえたといえるのにあえて訴えを提起した」
引用:裁判所
といえる場合には、不当訴訟として、訴えの提起自体が不法行為を構成するとされています(最高裁昭和63年1月26日判決)。
元勤務先が、従業員のミスなどなく、かつ、そのことを知っていたのに、単にその従業員に嫌がらせをする目的で、訴訟を提起した場合には、会社の損害賠償請求が認められないだけでなく、むしろ、会社の損害賠償請求を求める訴訟自体が不法行為と評価されると考えられます。
以上から、元勤務先からの請求があまりに不当と考えられる場合には、逆に損害賠償請求をすることで対抗することが考えられます。
②会社の損害賠償請求が不当訴訟であると評価されたケース
会社が退職後の従業員に対して損害賠償請求をした場合において、会社の訴え自体が不当訴訟であり、不法行為を構成すると判断されたケースとして広島高等裁判所平成25年12月24日があります。
このケースは、従業員のミスというより、従業員の横領が疑われたケースでした。
判決では、従業員が横領をしたという事実はなく、会社はそのことを知っていたのに(少なくとも容易に知り得たのに)、あえて訴訟を提起して損害賠償の支払を求めたという事実が認定された上で、会社の訴え自体が不当訴訟であり、不法行為を構成すると判断しています。
まとめ
会社が従業員のミスを理由に損害賠償請求をすることは、容易ではありません。そのため、元勤務先から務めていた際のミスを理由として損害賠償請求をされたとしても、まずは落ち着いて事実関係を確認してみましょう。
この記事が、転職後、元勤務先から損害賠償請求をされるのではないかと不安に思っている方や、実際に元勤務先から損害賠償請求をされている方にとっての助けになれば幸いです。