昨今、「新しい人権」というキーワードを聞くことが多くなりました。
この記事では
- 「新しい人権」とは何か
- 「新しい人権」の種類
- 「新しい人権」が問題となった有名な裁判例
- 「新しい人権」に関する最近の問題
について解説していきます。
職場や学校での資料としても使うことができるよう、丁寧にまとめました。ご参考になれば幸いです。
1、「新しい人権」とは憲法に書かれていない人権
- 思想良心の自由
- 表現の自由
- 職業選択の自由
など、これらの人権は、憲法に書かれている人権です。
他方で、
- プライバシー権
- 自己決定権
- 知る権利
なども人権と言われて久しいですが、実はこれらの人権は、憲法に明文で規定されていません。
このように、憲法に書かれていない人権のことを、「新しい人権」といいます。
(1)そもそも人権とは?
人権とは、すべての人が、人であることから当然に有する権利をいいます。
自由に考えられること、自由に表現できること、好きな仕事につけること、結婚する相手を自由に選べることなど、こうした「自由」は、社会に生きる個人が、人らしく生きるために必要不可欠な自由です。
また、これらの自由は、年齢、性別、国籍を問わず、誰にでも認められるべき自由です。
こうした自由を権利として保障したものが、人権です。
日本をはじめとする多くの国では、国の法の中で最も上位の「憲法」に、特に重要と考えられる人権を具体的に定めています。
(2)「新しい人権」が登場した背景
日本国憲法が成立したのは、第二次世界大戦後の1946年10月、施行されたのは1947年5月です。
日本国憲法は、アメリカの憲法を参考にして作られており、思想良心の自由、表現の自由、職業選択の自由など、特に重要と考えられる人権は、日本国憲法にも書き込まれました。
日本は、1950年~1960年台、高度経済成長を迎えます。
日本が空前の経済成長を経験する一方で、四大公害病、鉄道・空港の騒音被害など、人々の生活・生命が脅かされるような事態が生じ、環境への関心が生まれました。
また、マスメディアも高度に発達しました。政治家、芸能人のスキャンダル、ノンフィクション小説は、当時も好んで読まれましたが、その一方で、スキャンダルや小説の題材となる個人の平穏な生活が脅かされてよいのか、という問題意識が生じました。
このように社会状況が変わっていく中で、憲法に定められている人権以外にも、環境権やプライバシー権など、人が人らしく生きるために必要不可欠な自由があるのではないか、これらを憲法に定められている人権と同じように保護すべきではないか、と考えられるようになりました。
こうした状況が、「新しい人権」が登場する背景となりました。
(3)「新しい人権」を根拠付けるのは「幸福追求権」
「新しい人権」とは、憲法に書かれていない人権です。
「新しい人権」が必要となる社会的な状況があるとしても、憲法に書かれていない「新しい人権」を、憲法上どのように憲法上根拠付けるのでしょうか。
この点については、今日では、憲法13条が定める「幸福追求権」を「新しい人権」の根拠とすることについて、ほぼ異論がありません。
憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と定めています。
ここでいう「幸福追求に対する国民の権利」が「幸福追求権」といわれるものです。
憲法には、思想良心の自由、表現の自由、結婚の自由など、主要な人権が個別に定められています。これらの人権は、憲法13条が定める「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の具体例と考えることができ、憲法13条は、もろもろの人権を基礎づける「包括的な規定」と考えることができます。
したがって、「新しい人権」についても、それが憲法に書かれている自由と同じように、社会で生きる個人が、人らしく生きるために重要と考えられる自由といえる場合には、憲法13条が定める「幸福追求権」により根拠付けることができると考えられるのです。
2、「新しい人権」も無制限ではない
個人が大事だと考える自由であっても、あらゆる自由が「新しい人権」として認められるわけではありません。
(1)「新しい人権」による人権のインフレ化現象
「新しい人権」を単なる自由と考えると、無限にその内容を想定できます。
たとえば、散歩する自由、部屋でギターを弾く自由、タバコを吸う自由…これらの自由は、確かにある人にとっては大事な自由かもしれません。
しかしながら、もしこれらの自由を、すべて「新しい人権」として保護しようと思うと、世の中に「人権」が溢れかえってしまいます。
一方の人権を優先すれば、他方の人権が制約されることもあります。これらの「人権」相互の関係を調整する必要がありますが、人権が溢れかえってしまうと、多くの場面で、「人権」が制約される結果となり得ます。その結果として、「人権」の価値が低下するおそれがあります。
このような事態を、「人権のインフレ化」と呼んだりします。
(2)「新しい人権」と認められるための条件
そこで、「新しい人権」と認められるための条件を、限定して考える必要があります。
そもそも、人権とは、社会に生きる個人が、人らしく生きるために必要不可欠な自由をいいました。
また、「新しい人権」が登場した背景を振り返ると、社会状況が変化する中で、憲法に定められている人権以外にも、人が人らしく生きるために必要不可欠な自由があるのではないか、これらを憲法に定められている人権と同じように保護すべきではないか、という考慮が背景としてありました。
したがって、「新しい人権」と認められるためには、少なくとも、憲法に定めがある人権と同程度に、社会に生きる個人が、人らしく生きるために必要不可欠な自由といえること、が条件であると考えられます。
(3)「新しい人権」の制約原理~「公共の福祉」による制約
ある自由が「新しい人権」として認められた場合、それに対する制約は一切認められないことになるのでしょうか。
「新しい人権」の根拠は、憲法13条が定める「幸福追求権」でした。
改めて憲法13条をみると、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、【公共の福祉に反しない限り】、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と定めており、「公共の福祉に反しない」ことが条件とされています。
では、「公共の福祉」とは何でしょうか。
かつての有力な見解は、「公共の福祉」とは、「人権相互の矛盾衝突を調整する原理」と定義していました。
しかし、この見解に対しては、人権を制約するために、別の人権を掲げることは、「人権のインフレ化」を招き相当でないという批判が加えられました。
たとえば、街のいたるところに表現活動のためのビラを張り付けたとして、これを規制する場合を考えてみると、規制の直接的な理由は「街の美観維持」ですが、これを人権に引き直すとすると、たとえば「きれいな街で暮らす自由」、「自分の価値観と異なる表現に接しない自由」等の「新しい人権」を持ち出さなければならないことになります。
これでは、「人権のインフレ化」と同じような問題を生じさせてしまいます。
そこで、今日では、「公共の福祉」とは、国側に、規制の合理的な理由を説明する責任を負わせるもの、と定義する見解が有力です。
これによると、ある自由が「新しい人権」と認められた場合、これを規制するためには、国側で規制の合理的な理由を説明する必要があり、国が合理的な理由を説明できた場合には規制が正当化され、説明できない場合には規制が正当化されない、という形で整理されることになります。
3、「新しい人権」の種類
以上の理論的な前提を踏まえて、ここでは、「新しい人権」の具体例として、
- プライバシー権(自己情報コントロール権)
- 自己決定権
- 肖像権・パブリシティ権
- 名誉権
- 環境権
- 日照権
- 騒音に対する規制
について、それぞれ説明していきます。
(1)プライバシー権(自己情報コントロール権)
プライバシー権は、かつて、私生活に干渉されない権利、言い換えると、「一人にしておいてもらう権利」と考えられました。
しかし、たとえば、自室を望遠カメラで覗かれていることを考えると、確かに「一人にしておいてもらう」ということは達成できていますが、直感的にいってもプライバシー権を侵害していると思われるのではないでしょうか。
このように、プライバシー権を「一人にしておいてもらう権利」とすると、プライバシー権保護の範囲が狭くなりすぎます。
そこで、今日では、プライバシー権とは、自分に関する情報を誰に公開するかをコントロールする権利、すなわち「自己情報コントロール権」であると考えられています。
2003年に成立した個人情報保護法及び行政機関の個人情報保護に関する法律は、個人情報を収集する事業者に対し、個人情報を収集する際に利用目的を特定すること、利用目的以外に個人情報を利用する場合や個人情報を第三者に提供する場合には個人の同意を要することなどを定めており、個人の自己情報コントロール権を前提とする法律ということができます。
(2)自己決定権
自己決定権とは、自分に関する事柄を自分で決める権利のことをいいます。
注意が必要なのは、自己決定権の内容は、かなり幅があるということです。
たとえば、今日のランチに何を食べるか、今年の夏休みにどこに行くかという選択は、それ自体大事ですが、「新しい人権」として保護すべき必要性は低いといえます。
他方で、宗教上の理由から、どのような治療を望み、あるいは拒否するかという選択は、個人の人としての生き方に関わる問題です。
このような個人の生き方に深く関わる自己決定権については、「新しい人権」として保護する必要性が高いといえます。
このように、一言で自己決定権といっても、保護の必要性が高いものから低いものまで様々です。
したがって、自己決定権については、個別の内容ごとに、「新しい人権」として保護すべきかどうかを考えることが必要といえます。
(3)肖像権・パブリシティ権
自己情報コントロール権の派生的なものとして、肖像権があります。
これは、自分の姿をみだりに他人に撮られない権利のことをいいます。
たとえば、「芸能人がお店に訪れたときに、その写真を撮影し、SNSで拡散した」という例を考えてみましょう。
まず、芸能人本人の許可なく、その姿を撮ることは、その芸能人の肖像権を侵害している可能性が高いといえます。
次に、芸能人には、一般の人にはない、顧客を呼ぶ力(顧客吸引力)があると考えられ、このような顧客吸引力を「パブリシティ権」といいます。
上の例で、お店の側が、芸能人が訪れたことをいいことに、お客さんを呼ぶことを狙って、芸能人の写真を撮影し、SNSで写真を拡散した場合には、パブリシティ権を侵害している可能性もあります。
上の例では、芸能人でしたが、たとえば、クラスメイトの写真を本人の同意なく撮影し、これをSNSなどで拡散させることは同様に、肖像権の問題となり得ます。
(4)名誉権
名誉権とは、人の社会的評価(評判、信用)に対する権利です。
たとえば、何の理由もなく、ある人について「あの人は万引きの常習犯だ」などということは、その人の社会的評価を低下させるといえるので、名誉権を侵害するものです。
もっとも、犯罪のような公的な関心事については、それが真実であるとすれば、そのような事実はきちんと指摘されるべきです。
また、真実でないことが後で分かったとしても、真実であると信じたことについて相当な理由があったとえいる場合にまで、これを指摘する行為が違法であるとしてしまうと、表現行為が萎縮してしまいます。
そこで、①政治家や犯罪に関することなど、公的な関心事については、②公共の利益を図る目的があり、③指摘した内容が真実であるか、真実であると信じるについて相当な理由がある場合には、違法行為には当たらないとされています。
(5)環境権
環境権とは、良好な環境の下で生きる権利をいいます。
日本では、高度経済成長期に、環境が破壊され、人々の生命や生活が脅かされる状況がありました。たとえば、水俣病では、工場からメチル水銀化合物が河川に排水され、その河川から取れた魚を食べた住民に重篤な後遺障害が残りました。
こうした状況を踏まえ、良質な環境が、人が人らしく生きるための前提であると認識されるようになり、環境権という権利が考えられるようになりました。
もっとも、「良質な環境」とは何かという点は、時代により、地域により、そして人により様々で、一義的な内容を決めることは難しいものです。
たとえば、東京都内のど真ん中と、北海道の大草原を比べてみた場合、後者の方が人の健康にとって良いだろうといえるかもしれませんが、それを基準に環境権を考えることは現実的ではありません。
このように環境権の具体的な内容を決めることは難しいといえますが、国が「良質な環境」を保つ努力をすることが望ましいことは疑いありません。
そこで、1993年に成立した環境基本法は、「環境の保全」が「人間の健康で文化的な生活に欠くことのできないもの」であると共に、環境が「人類の存続の基盤」であることを確認した上で、政府は「現在及び将来の世代の人間が健全で恵み豊かな環境の恵沢を享受するとともに人類の存続の基盤である環境が将来にわたって維持されるように適切に行われなければならない」として、国に「良質な環境」を保つ義務を定めています。
①日照権
環境権の具体例として、日照権があります。
日照権とは、建物内の日当たりを確保する権利です。
日照権を直接的に定めた法律はありませんが、新しく建物を建てる際に守らなければならない建築基準法は、個人の日照権を前提として、斜線規制や日影規制について定めており、新しく建物を建てるにあたって、近くの建物に住む人の日照権を保護しようとしているものと考えられます。
②騒音に対する規制
環境権の具体例としてもう1つ、騒音に対する規制があります。
騒音に対する規制は、高度経済成長期、新幹線や空港について問題となりました。
そして、一定の限度を超える騒音にさらされると、健康被害を生じることが分かり、様々な規制が生まれました。
たとえば、東京都では、空港、新幹線、工場、建設工事、その他一般に分けて、それぞれ騒音に対する規制について定めた環境基準が作成されています。
4、「新しい人権」が問題となった有名な裁判例
過去の裁判例で、「新しい人権」はどのように扱われてきたのでしょうか。
ここでは、「新しい人権」が問題となった有名な裁判例をいくつか紹介します。
(1)「宴のあと」事件
①事件の概要
『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』等の小説で知られる三島由紀夫は、小説『宴のあと』を執筆し、この小説が雑誌『中央公論』の1961年1月号から10月号にかけて連載されました。
これに対し、当時、元外交官であり、東京都知事候補として出馬した有田八郎が、自身のプライバシーを侵害するものであるとして三島由紀夫と出版社を訴えました。
『宴のあと』は、「野口雄賢」とその妻「福沢かづ」という2人の人物を中心とする小説で、野口と福沢の出会いから、野口の選挙戦と落選、それから野口と福沢の離婚に至るまでを描いた小説でした。
他方、有田八郎は、自身が出馬する東京都知事選の前、妻となる畔上と出会い、畔上と結婚しますが、その後、都知事選で敗れ、畔上と離婚しました。
こうした背景を踏まえると、『宴のあと』は、「野口雄賢」といった仮名を用いているものの、読者にとっては、それが有田八郎という実際の人物をモデルとするものであり、また、その小説がフィクションであるとしても、有田八郎という人物について実際にあった出来事を描いたものという印象を与えるものでした。
②裁判所の判断
以上を踏まえて、東京地方裁判所は、まず、個人には「私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利」という意味の「プライバシー権」が認められると判断しました。これは、日本で初めての「プライバシー権」についての判断でした。
その上で、公開された内容が、
- 私生活上の事実又は私生活上の事実らしく受け取られるおそれのある事柄であること
- 一般人の感受性を基準として、公開を望まない事柄であること
- 一般の人々にいまだ知られていない事柄
である場合には、私生活上の事柄を公開された個人は、プライバシー侵害を訴えることができると判断しました。
結論として、『宴のあと』事件では、有田八郎のプライバシー侵害を根拠とする損害賠償請求が認められています。
(2)北方ジャーナル事件
①事件の概要
『北方ジャーナル』は、北海道の出版社が刊行する月刊雑誌です。
同出版社は、1979年、北海道知事選挙に立候補を予定していた者に関する記事を出版予定でしたが、記事の対象となった立候補者は、その記事が、自身の名誉権を侵害するものであるとして、その出版の差し止めを求め、これが認められました。
この記事は、立候補予定の人物について、「嘘と、ハッタリと、カンニング巧みな少年であった」、「昼は人をたぶらかす詐欺師、夜は闇に乗ずる凶賊」、「クラブのホステスをしていた新しい女を得るために、罪もない妻を卑劣な手段を用いて離別し、自殺せしめた」などと評した上で、「北海道にとって真に無用有害な人物であり、社会党が本当に革新の旗を振るなら、速やかに候補者を変えるべきであろう」などと主張するものでした。
これに対して、出版の差し止めが違法であるとして、差し止められた側が、損害賠償などを請求した事件です。
②裁判所の判断
最高裁判所は、「名誉」を「生命、身体とともに極めて重大な保護法益」であると判断した上で、名誉権を侵害され、あるいは将来侵害されるおそれがある者は、侵害の排除を求め、侵害の差し止めを求めることができるとしました。
もっとも、出版の差し止めを求める場合には、出版しようとする者の表現の自由にも配慮する必要があることから、原則として差し止めは認められず、例外的に、
- 表現内容が真実でなく又はもっぱら公益は図る目的でないことが明白で、
- 被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがある場合
に限り、差し止めが認められると判断しました。
北方ジャーナル事件では、結論として、1. 2.の例外的な要件を満たし、差し止めは認められるとして、損害賠償請求を認めませんでした。
(3)「エホバの証人」輸血拒否事件
①事件の概要
「エホバの証人」では、血を避けることによって身体的、精神的に健康でいられると信じられており、ひとたび人の外に出た血を体に取り入れること、すなわち輸血を受けることはできないという信念を有しています。
「エホバの証人」の信者である原告もそのような信念を有しており、肝臓の腫瘍を摘出する手術を受けるにあたって、輸血をしない病院を探していました。
そうしたところ、被告の医師らが勤務する病院にたどり着き、手術を受けることを決意しました。
他方、被告の医師らが勤務する病院では、患者が「エホバの証人」である場合には、原則として輸血を行わないことにするが、輸血以外に救命方法がない事態に陥った場合には、輸血を行うという方針を採っていました。
ただ、この方針を原告である患者に事前に十分説明しませんでした。
②裁判所の判断
第一審の東京地方裁判所は、原告である患者の請求を棄却しました。
しかし、第二審の東京高等裁判所は、医師には、原則として、治療を行う前に患者の同意を得ることが必要であるとし、それは患者の「自己のライフスタイルは自ら決定することができる」という意味での自己決定権に由来するものと判断しました。
そして、結論として、事前に方針を説明しなかった医師らには、患者である原告の自己決定の機会を奪った違法があるとして、原告の損害賠償請求を認めました。
最高裁も第二審の判断を支持しました。
この訴訟の中で被告らは、「自己の生命の喪失につながるような自己決定は認められない」と反論しましたが、裁判所は、患者が自殺しようとして治療を拒否しようとするなどの特段の事情がある場合を除き、「人はいずれは死すべきものであり、その死に至るまでの生きざまは自ら決定できるといわなければならない」ことから、その選択の機会は十分に尊重されなければならないとして、被告らの主張を一般論として認めることができないと判断しました。
患者の自己決定と医師の生命倫理という点で、興味深い裁判例といえます。
(4)大阪国際空港公害事件
①事件の概要
大阪国際空港は1939年に開港しましたが、1964年、ジェット機の乗入れが始まり、以降、大阪国際空港を発着する飛行機は増加し続けました。
当時、騒音に関する環境基準が定められていましたが、大阪国際空港に乗り入れするジェット機の騒音は、この環境基準を大きく上回るものでした。
1971年、周辺住民は、空港の騒音により、健康が害されている他、家族との会話・団らん、テレビの視聴、睡眠等が妨げられていると主張し、環境権を根拠に、夜間の発着の差し止めを求めました。
②裁判所の判断
裁判の中で、環境権がテーマとなりましたが、裁判所は、「憲法13条、25条の規定は、国の国民一般に対する責務を定めた綱領規定であって、これらの規定によって直接に、個々の国民について具体的な請求権、特に公害の私法的救済手段としての環境権なるものが認められているわけではない」(第一審・大阪裁判所)として、環境権に基づく差し止めは認めませんでした。
もっとも、裁判所は、「個人の生命・身体の安全、精神的自由は、人間の存在に最も基本的なことがらであつて、法律上絶対的に保護されるべきものであることは疑いがなく、また、人間として生存する以上、平隠、自由で人間たる尊厳にふさわしい生活を営むことも、最大限度尊重されるべきもの」とした上で、このような生命、身体、精神および生活に関する利益の総体を「人格権」と呼ぶことができるとしました。そして、「人格権」を根拠として、差し止め請求が根拠づけられるとしました(第二審・大阪高等裁判所)。
この事件では、最高裁判所が、結論として、法理論的な問題から、そもそも空港の発着に関して「人格権」を根拠とする民事上の差し止め請求はできないとして差し止め請求を認めませんでした。
ただ、この事件をきっかけに「環境権」がクローズアップされ、人の生活を取り巻く環境が、人が人らしく生きるために重要であるという点が再認識された点で、重要な判決でした。
5、「新しい人権」に関する最近の問題
最近では、「新しい人権」としてどのような問題があるでしょうか。
(1)LGBT、特に同性婚をめぐる問題
LGBTとは、レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、両性愛(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)の各単語の頭文字を組み合わせた言葉です。
LGBTに関する問題は、同性愛者や、「生物学上男性(女性)であるのに女性(男性)らしく生きる人々」が「異常」であるとして偏見・差別を受けてきた、という歴史への反省から生まれました。
そして特に、同性同士で婚姻関係を結ぶ同性婚の問題は、自分の性をどのように認識し、また、自身のパートナーとして誰を選ぶかというアイデンティティの問題に深くかかわることから、日本でも古くから議論がありました。
2015年、東京都渋谷区がいち早く「パートナーシップ制度」を導入し、自治体が同性カップルを「婚姻に相当する関係」であると証明する仕組みができあがりました。その後、各自治体が「パートナーシップ制度」を導入し、2021年現在、100以上の自治体が「パートナーシップ制度」を導入しています。
こうした流れを受けて、2021年3月、札幌地裁が、民法が同性婚を認めないことが憲法に違反するという、極めて重要な判決を出しました。
この判決では、憲法13条を根拠とする「同性間で婚姻する自由」「同性間の婚姻に関する具体的な制度を国に求める権利」といった「新しい人権」は、そういった自由・権利が「包括的な人権規定」である憲法13条によって根拠づけることはできないとされました。
他方で、同判決では、民法が、同性間での婚姻を認めていない結果として、同性間で結婚生活を営もうとする者には、婚姻による法的利益が全く与えられなくなっており、このような結果は、合理的な理由がない区別であるとして、憲法14条に違反すると判断されました。
(2)原子力発電所の運転差し止め
2011年3月11日、東日本大震災が発生し、津波の影響により、北地方の太平洋側地域に壊滅的な被害がもたらされました。
また、地震・津波の影響により、福島第一原子力発電所において炉心溶解(メルトダウン)、水素爆発が起き、大量の放射線物質を漏洩する大きな原子力発電事故に繋がりました。
福島第一原子力発電所での原子力発電所の結果、周囲の住民は、避難を余儀なくされ、それまでの生活の拠点を失いました。
福島第一原子力発電所の事故が起きるまで、原子力発電所は安全であると信じられていました。しかし、事故後、原子力発電所が安全であるという話は「安全神話」にすぎず、福島第一原子力発電所のみならず、他の原子力発電所にも生活を脅かすような危険があるのではないかと考えられるようになりました。
そうして全国で、原子力発電所の運転差し止めを求める訴訟が起こされました。
差し止めを求める訴訟では、「新しい人権」である人格権や環境権が、差し止め請求の根拠として主張されています。
その後、大飯原発(福井県)、伊方原発(愛媛県)で、一時、裁判所による差し止めが命じられました。
しかし、いずれも不服申立てにより差し止めを命じた判決が覆されました。
(3)「髪染め禁止校則」などの校則に関する問題
2017年、大阪府立高校に通学していた女性が、髪を染めることを禁止する校則に基づき、繰り返し黒染め指導を受けたことで精神的苦痛を受けたと主張して、国に対して損害賠償を求める訴訟を提起しました。
この訴訟を受けて、各自治体で校則に関する見直しがなされ、「ブラック校則」という言葉も登場しました。特に、生徒の下着の色を指定する校則については、批判的な意見が多くみられました。
校則との関係で問題となるのは、生徒の自己決定権です。上記の女性が起こした裁判でも、女性側は、髪の色を何色にするかは自己決定権の問題であると主張していました。
2021年2月、大阪地方裁判所は、校則については学校側にそれを定める包括的な裁量(選択の余地)があることを前提に、「校則等が学校教育に係る正当な目的のために定められたものであって、その内容が社会通念に照らして合理的なものである場合には、裁量の範囲内のものとして違法とはいえない」とし、結論として、髪を染めることを禁止する校則は違法ではないとしました。
結論的には校則を違法としませんでしたが、学校は無限定に校則を定められるわけではなく、「教育上正当な目的」、「内容が社会通念に照らして合理的なものであること」などが求められることは、校則を新たに作ろうとする際や、校則の見直しを行う際には注意すべき点といえそうです。
(4)インターネットでの誹謗中傷における注意点
スマートフォンの普及が進み、小学生・中学生でもスマートフォンを持ち歩くことが珍しいことではなくなりました。
スマートフォンの1つの特徴として、インターネットに気軽に接続できるという点があげられ、スマートフォンの普及が進んだ結果、より多くの人が、インターネットを利用するようになりました。
他方、インターネットの特性として、匿名性があげられます。
インターネットの匿名性により、誰もが気軽に様々な意見を公表できるようなった反面、時に、インターネットの匿名性をいいことに、芸能人や著名人に対する誹謗中傷をインターネット上で行われることがあり、ブログや動画投稿サイトのコメント欄が誹謗中傷等のコメントであふれることを指す「炎上」という言葉も生まれました。
「炎上」するだけにとどまれば良いですが、時に、誹謗中傷の対象となった個人を深く傷つけることもあります。最近では、テラスハウスに出演していた木村花さんが自身へのインターネット上での誹謗中傷に傷つき、自殺してしまったことがニュースとして報じられました。
他人への誹謗中傷は、それがプライバシー権、名誉権を侵害するものである場合には、当然に違法で、民事上の損害賠償責任が生じます。場合によっては刑事罰に発展することもあります。
また、インターネットに匿名性があるとはいえ、プロバイダ責任制限法は、発信者情報の開示を定めており、一定の要件を満たすことが必要ではありますが、所定の手続を踏むことにより、投稿した個人を特定することを可能とする仕組みとなっています。
インターネットで気軽に発言できる時代になりましたが、無責任に発言であるわけではないということは、今一度、確認しておくことが必要といえそうです。
まとめ
以上、「新しい人権」について、理論的な根拠からはじまり、過去の裁判例、最近の問題について解説しました。
「新しい人権」は、社会の「新しい問題」について考え、問題解決の糸口となる1つのツールであることが実感されたのではないでしょうか。
また、LGBTの問題に顕著ですが、「新しい人権」の問題は、社会には異なる価値観を持つ人がいるということを実感するきっかけとなります。そして、そのような異なる価値観をもつ人たちが社会で共存していくために、どのような制度が必要かという問題を考えさせるものです。
これからも社会はどんどん変化していくことが予想されます。
「新しい人権」を1つの切り口にして、個人の幸福にとって何が大事か、周りの人と一緒に議論し、考えてみるのはいかがでしょうか。