アルコール規制によって、飲酒が公共の場で禁止される場所が増えてきましたね。
長野県松本市の松本城公園では、2014年から毎年9月にクラフトビールを楽しむイベントが開催されていましたが、2017年、主催者から開催を断念することが発表されました。
また、海水浴場や花見の名所でも飲酒を禁止する場所も出てきています。
「禁止」という言葉が出てくるということは、法律や条例に何か変化が起きているのでしょうか。
ベリーベスト法律事務所の弁護士がご説明します。
目次
1、アルコール規制の法律は存在する?飲酒をしてはいけない?
はじめに、公共の場での飲酒そのものを全国的に禁止する法律はありません。
海水浴場での飲酒を制限する条例については、神奈川県の鎌倉市と逗子市、兵庫県神戸市に定められています。
この3つの市の海水浴場以外で、公共の場の飲酒が制限されている場合は多くが施設管理者の判断によるものです。
前述の松本城公園は松本市教育委員会が管理しています。
この教育委員会が松本城公園管理の内規を変更し、今年から飲酒や種類販売を伴うイベントの自粛が要請されるようになりました。
なお、飲酒そのものではなく、酒に酔って「公衆に迷惑をかけるような著しく粗野又は乱暴な言動をした」人を罰する法律は存在します。
行為を行った人だけでなく、そそのかした人や手助けした人も処罰の対象となり、拘留または科料に処せられる可能性があります。
ちなみに拘留とは「1日以上30日未満の期間、刑事施設に拘置される刑」。
科料は「1000円以上1万円未満のお金を徴収される刑」のことです。
なお、この法律は「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」という、なんのひねりもない名称であり「酔っ払い防止法」などの別称で呼ばれることもあります。
2、アルコール規制|飲酒による「酔っぱらい防止法」はあまり適用されていない
もっとも、この酔っぱらい防止法が適用されて逮捕されるという事例は多くないようです。
そこには「この法律の適用にあたっては、国民の権利を不当に侵害しないように留意しなければならない」と条文で定められていることが関係しているものと思われます。
軽犯罪法にも同様の条文があり「公共の場所において多数の人に対して著しく粗野、若しくは乱暴な言動で迷惑をかけた」人は、拘留または科料に処されます。
酔っぱらい防止法は対象が酩酊者に限定されますが、軽犯罪法は酩酊者に限らないので、酩酊といえるかどうかの見極めが不要な分、適用する側にとっては酔っ払い防止法よりも軽犯罪法が使い勝手が良いとも考えられます。
つまり酔っぱらいの多くは軽犯罪法で摘発されていることが予想されます。
そのため「酔っ払い防止法により~」というケースはあまり目にすることがありません。
3、タバコの次はアルコール規制| “お酒が飲めない場所”が増えている背景
法律では、そこまで積極的に飲酒の取り締まりをおこなっていないことをご理解いただけたかと思います。
それではなぜいま、飲酒を制限する条例や施設管理者が増えているのでしょうか。
この点については自治体や各施設管理者の判断によるところが大きく、背景として世の中でアルコール規制が叫ばれていることが考えられます。
2010年に世界保健機関が「アルコールの有害な使用を低減するための世界戦略」を採択し、3年後の2013年には日本でアルコール健康障害対策基本法が制定されました。
そして2016年、アルコール健康障害対策推進基本計画が策定され、2017年4月には、厚生労働省にアルコール健康障害対策推進室が設置されました。
タバコの規制が段階的に進んでいったように、今後はアルコール規制を段階的に推進していくことが検討されているのでしょう。
飲酒人口も減っているようです。
厚生労働省の行っている生活習慣調査によると、2015年の調査では「飲酒習慣のある者」(週3日以上で、清酒に換算し1日1合以上飲酒する者)の割合は19.7%であり、調査を開始した2003年の24.9%から4分の1以上下落しています。
このように、酒離れやアルコール規制の流れができ始めていることは世の中を動きを見ていてもわかります。
この動きに乗じて、健康上の理由でなくとも規制や禁止を叫びやすい風潮になっていることも考えられます。
まとめ
松本城公園の例では「史跡の品格にふさわしくない」のひとことで、アルコールを伴うイベントが自粛を要請されることとなりました。
アルコール規制のトレンドを追い風に、管理者側は禁止を断行できたのかもしれません。
このようなケースが当たり前になってくると、春の花見や夏の海水浴でお酒を楽しめなくなるかもしれません。
もちろん、管理者側にも相応の言い分はあるのでしょう。
松本城公園のケースでは、事前に参加者に対してマナーを守る様に注意喚起がなされていたようです。
一律に禁止することになるまで紆余曲折があったのでしょう。
それでも、何か手立てはあるはず。
折衷案を見出すべく、再考の余地があるように思います。